Get It While You Can(1)









 夢を見た。

 その昔、泥酔の果てに見る夢は、大抵ろくなものではなかった。ヒエロニムス・ボッシュか、それともウィリアム・ブレイク卿の幻想もかくやというほどの、ありとあらゆる奇怪なイメージが、おれを取り囲み、追い立てる。内なる闇へと追い込んでゆく。
 それは酒場で突然、目の前に現れることもあれば、深夜のゴミ溜めや、這うようにして帰り着いた、明け方の自室のベッドの上で展開されることもある。逃れたい一心で、またおれは酒をあおった。危険を承知で、クスリと酒を一緒にやるのが、癖になった。
 脳みそは溶解寸前、蝕まれた肉体は、立って、まっすぐ歩くことにすら音を上げた。大袈裟ではなく、あの頃のおれは、いつ死んでもおかしくはなかったのだ。誰に顧みられることもなく、共同墓地のされこうべ……いや、今は灰にして、空から撒くのであったかな。まあとにかく、そんな結末を迎えることになっても、文句は言えなかった。
 そう。あの頃に比べれば、今のおれは、だいぶましになったと言うべきだろう。運命の女神の、たちの悪い悪戯。幸か、不幸か。酒に酔っても、もう悪夢を見ることは、ほとんどない。
 望むと望まざるとに関わらず与えられた、この特殊なからだのせいもあるだろう。しかしそれよりも何よりも、傍にいてくれる、……あの男のおかげなのではないだろうか。
 差し向かいで杯を傾けるとき、ふと、そう思う。無言で掲げたグラスに、感謝をこめたくなる。彼が浮かべる、まばゆい無垢の微笑みを前にして。

 感謝? 果たしてそれだけか、本当に?……






 そしてその夜、おれが見た夢は、なんともせつなく甘く、胸をかき乱すものだった。
 美しい天使が、声を殺して泣いている。その天使は、数刻前まで一緒にバーのテーブルでバランタインを舐めていた、おれのよく知っている男の姿をしていた。柔らかそうな銀糸の髪、闇夜に降り積もった清浄な雪を思わせる白い頬。けぶるような、青のまなざしから、透明な涙がぽろぽろとこぼれ落ち、頬の上を伝って流れる。必死に噛み締めるその指先、いや、指先だけではなく手の甲も、窓からわずかに洩れる街灯のあかりを受けて、鈍色に光っていた。
 おれ自身も仰向けになっていたはずなのに、その横に身を横たえていた彼の様子が、まるで上から見下ろすように見えたというのも、なんだか妙な話だ。しかし、そんなことよりも何よりも、何故彼が泣いているのか、それが気になって仕方がなかった。おれよりも骨格のしっかりとした、脆弱などという形容からは程遠いからだつきをしているのに、震えるそのからだは、ほんの少し力をこめて抱きしめただけで壊れてしまいそうに、はかないものに見えた。
 胸が詰まって、おれは彼に手を伸ばした。指先が髪に触れた瞬間、彼がびくりと身を震わせるのが、はっきりと分かった。
 「どうした」
 天使は泣くばかりで、答えない。こわばった肩の下から、細く頼りない息遣いがわずかに聞こえるのみだ。
 一瞬躊躇したが、おれは意を決して、手を動かした。開かれた腕の中に、天使は縋るように身を寄せてきた。服の上から触れられても冷たい右手が、必死にしがみついてくる。それまで押さえていた嗚咽が苦しげにくちびるから零れ、切れ切れに尾を引く。いじらしさに、胸がちぎれるように痛んだ。
 小刻みに震えるその背を、小さな子をあやすようにゆっくりと撫でさすってやりながら、おれはもう一度、彼に声をかけた。
 「いい子だ……泣かないで」
 「……」
 「ハインリヒ、おまえさんは、いい子だよ……だから、泣くことないだろう?」
 シャツの胸に、彼の流した涙が染みる。その熱さに、おれは慄いていた。今まで、おれが泣いたことがなかったかといえば、それは嘘になるが……気がつかなかった。我々でも、熱い涙を流すことが出来るのだ。失望することはないんじゃないかと思える要素が、またひとつ、見つかったのかもしれない。
 彼の歔欷の声が、少しずつではあるが、潮がひいてゆくようにおさまってゆく。おさまってしばらくしても、おれは彼の背を撫で続けていた。泣き止んでくれたのが嬉しかったのはもちろんだが、互いのシャツを隔てて感じられる、思いのほかあたたかな人肌の感触が、何より心地よかった。そして、なめらかで優美な曲線を描く、彼のシルエット。ずっと触れていたい。ずっと、こうして身を寄せあっていたい。
 額をおれの胸に擦り付けていた天使がふと、タンポポの綿毛のような長い睫をもたげて、おれを見た。腫れぼったくなった瞼のせいか、いつもよりずっと幼くて、抱きしめて頬擦りしたくなるほど、あどけない顔をしていた。
 汚れなき天使。彼のため、彼の笑顔のためならば、すべてを擲っても、後悔はしない。
 「愛してる……グレート、あんたが好きで好きで、たまらないよ」
 おれも愛している。ハインリヒ、おれのいとしい守護天使。……その答えを、口にしたのか、しなかったのか。夢は、そこで途切れた。






 逃れようのない引力によって、引き剥がされるように意識が夢の世界から遠のき、すとんと肉体の殻の中へと戻ってくる。甘い夢を見たときに限って、いつもそんな、名残惜しい目の醒め方をするものだ。
 ゆっくりと目を開けると、見慣れた天井の染みが目に入ってきた。部屋の中は、既に明るい。
 ……それにしても、とんだ夢だったな……。
 テムズの川霧に巻かれたように、ぼんやりとした頭の片隅で、そんなことを考える。なんともいえず、くすぐったい後味は否定できない。夢の中とはいえ、秘めた想いを口にして、彼をこの腕に抱いたことは事実である。彼のやさしいぬくもりまで、手のひらに残っているようだ。
 そこまで考えて、ちょっと指を動かしたとき、たちこめていた濃い霧が、一瞬にして晴れた。手のひらに残っているどころか、その感触は今まさに、おれの手のなかにあるものだと気付いたからだ。
 すんでのところで、跳ね起きるのを堪えたのは正解だった。おれの腕の中で、他でもない彼が、眠っていたのだから。






 (まさか……まさかとは思うが)
 おれは酔いに任せて、彼に、無体なことをしはしなかったか?
 そう考えてしまうのも、無理はなかった。何しろ、あんな夢を見た後である。しかし、それにしては彼もおれも昨日の衣服を着けたままだし、そんな行為に及んだ痕跡は窺われない。ネクタイがほどかれ、皺くちゃになったシャツのボタンが鳩尾の辺りまで開けられていたが、それはどうやら、彼がしたことであるらしい。開いた場所からその奥へ、指先が触れるか触れないかというところに、鈍く光る彼の右手が添えられていた。
 激しい動悸に彼が気付いて、起きやしないかとはらはらしながら、頭の中に散乱した、昨日の午後から夜にかけての記憶を、注意深く組み立ててみた。正午過ぎ、5日間の休暇を過ごすため、ドイツから到着した彼を迎えに行って、荷物を置きにここへ一旦戻ってきた。日が暮れるまでしばらく、彼の好きなバッハのオルガン曲と、アールグレイの香りを愉しみつつ近況について話をして、それから……そうだ、シティのはずれにある、行きつけのバーへ飲みに行ったんだっけ。くちびるが切れるようなマティーニを数杯、とっておきのバランタインのボトルが空になった辺りから、記憶が曖昧になってくる。彼に抱えられて、玄関をくぐったことが、おぼろに思い出されるのみだ。
 参った。……思わずそんなつぶやきが、口から洩れた。まったくもって、参った。さまざまな意味で。
 また彼に介抱させてしまったという後悔は、いつものことだ。しかし、目の前のこの事態に、一体どういう収集をつけようかと思うと、大袈裟ではなく、頭を抱えたくなってしまう。幸い、今はまだ眠っているが、彼が目覚めたとき、一体どんな顔をして目を合わせればいいのだろう。矜り高い彼のことだ、みずから道化になって、この事態を笑ってやり過ごせるとは、とうてい思えない。しかもどうした訳か、こちらに都合の悪いときに限って、彼はおそろしく敏いときている。おかげでこれまでにも随分、おれは酒に酔った勢いで、彼に言わずもがなの苦い思い出話をするはめに陥っているのだ。彼が起き出して、くだんの鉄壁の防御姿勢を固めるまでおれが狸寝入りを決め込んだところで、誤魔化しきれる自信はなかった。そう、おれの演技力をもってしても。
 いや、だが……ちょっと待てよ、グレート。
 おれはあの夢が現実にあったことだと思って、どうしようかとおろおろしているが、あれはあくまで夢に過ぎなかったんじゃないのか?
 シティのはずれからここまで、おれを抱えてきたのだ。アルコールも、相当入っている。ただ疲れ果てて、おれの横に倒れこんだだけなのかもしれない。痛ましいくらいに遠慮深い彼のことである、いつもここに泊まるときに使う居間のソファベッドも広げず、戸棚の中のシーツを出すのも躊躇ったということは、充分あり得るではないか。
 なんだ、きっとそうだ。気に病むほどのことじゃない。
 無理矢理自分を納得させようと、肚を決めかけたそのとき、胸の上に乗った金属の腕がぴくりと動いた。冷やりとして視線を向けるのと同時に、長い睫がしばたき、彼がゆっくりと、目を開けた。






 阿呆のように口を開けたままのおれを、清らかな泉が捕らえていた。
 おぼろにかすんだ青いまなざしは、まだ半分夢の中のようだ。ももいろのくちびるがほころんで、幸せそうな、心底幸せそうな微笑みをうっとりと浮かべる。その哀しいまでの美しさに、おれは心臓をひと突きされたような衝撃を覚えて、凍りついた。
 ……夢ではなかったのだ、あれは。やはり、夢ではなかったのだ。
 その途端、彼のくちびるから、微笑みが消えた。
 胸の上の右手が、軋むほどに握り締められ、それから、引き結んだくちびるに持ってゆかれた。指先を噛むのは、何かに必死で耐えるときの、彼の癖だ。
 のろのろと身を起こした彼の顔を、正視など出来ようはずもなかった。手酷く傷ついた、無表情の青白い顔。目の前が真っ暗になる。
 声をかけるきっかけを、おれはすっかり失っていた。






 窓が開け放たれているにも関わらず、気まずい空気がどんよりとこもった居間で、おれは目の前に置かれている、紅茶のカップの中をぼんやりと見つめていた。
 向かいには、彼がいる。しかし、彼もおれと目を合わせることはなく、やはり同じように、目の前のどこかを茫洋と眺めていた。色の淡い彼のひとみは、明るいところで見ると焦点がどこに絞られているのか、今ひとつ分からないこともあるが、この瞬間は眩しい朝の光が原因ではないことは、今さら言うまでもない。
 目覚めてからこっち、会話はほとんどない。笑って事態を打開するには、時間が経ちすぎてしまった。ならば……いつまでこうやっているつもりだ、グレート? お得意の、いつもの軽いお喋りは、一体どこへ行ってしまった?
 自問してみるが、もちろん答えなど、見つかるはずもない。とにかく重苦しい空気から逃れたくて、おれは煙草に手を伸ばした。ニコチンの助けを借りれば、何かいい策も見つかるかもしれないと思った。
 火をつけて、肺の奥深くまで吸い込んだ煙をゆるゆると吐き出していると、長い前髪の下から、彼がこちらを見ているのと、目があった。
 吸うか。
 やや、ためらってから目で尋ねてみると、彼は無言で頷いた。一本引き出して、彼に差し出す。煙草を銜えた薄いくちびるが近づいてきて、おれの灯したマッチから、火を受けた。
 煙草が、人間関係を円滑にするなどと誰が言ったのだろう。いや、誰もそんなことは言わなかったか。おれの向かいで、彼は無言のまま、煙草をふかしている。明らかに、何か声をかけて貰いたがっているが、何を、どう言えばいいのか……途方に暮れてしまう。煙草を吸うかと、さっき何故声に出して言わなかったのか。後悔を胸に痛く感じるときは、いつでも遅すぎる。
 せっかく培ってきた大事な「友情」が、これで崩れてしまうのかと思うと、やりきれない。紫煙の流れるに任せて、策を練ろうというのは、あまりに安易に過ぎる。
 いや、「策を練る」ということ自体が、間違っているのではないか?
 もし、彼があのとき言ってくれたことばが真実であるのならば……逃げずに伝えるべきだろうか。おれも、真実の想いを。


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