Good to See You(1)終点への到着を告げるアナウンスが流れてから、ようやく周囲の人びとは身支度をはじめた。 まだ夕暮れまではだいぶ間があるというのに、窓から見える空は重たげな鉛色をしている。その下でうごめく人びとは誰も彼も背を丸め、足を引きずっていた。ドイツの地方都市でもしばしば見かける光景だが、この国のそれは、いささか年期が入っているようだ。斜陽と言われて、数十年。もう長い間、この町の時間は止まったきりなのかもしれない。 プラットフォームに降り立った途端、寒さが頬を刺した。日本にしばらくいた身には、懐かしい感触だ。駅舎を出たところに、古ぼけたタクシーが一台、ロータリーに止まっている。自販機のコーヒーを片手に煙草をふかしていた運転手は、歩み寄るおれに声をかけるでもなく、ぼんやりと見ているだけだった。なんとも商売っけがない。 「今、出られるか」 「ああ。どこまでだ?」 「ここまで」 コートの内ポケットからメモ書きを取り出し、運転手に差し出す。そこに書かれてある通りの名前を確認するや否や、運転手は妙な顔をした。 「……ここへ?」 「頼む」 「町の外からのお客さんが、行くようなところじゃあないですがな」 ――どこへゆこうと、おれの勝手だ。 そのひとことを、なんとか飲み込んだ。さっさと後部座席のドアを開けて、手荷物を放り込む。乗り込んだおれをバックミラー越しに一瞥して、運転手はなにかを言おうとした。しかしひと睨みすると、その気も失せたらしい。吸い殻を窓の外へはじき飛ばし、黙ってキイを回した。 窓の外、流れゆく風景を、見るともなしに眺める。町の寂れようをまのあたりにすると、ここへ来るまで幾度も感じた後悔の念が、重くのしかかってきた。やはり、来るべきではなかったのかもしれない。彼がみずから、望んだことなのだ。今の生活になじむまでは、そっとしておくのが人情というものではないか。 ――今、あなたが訪ねても、彼は喜ばないと思うけど。 日本を発つ前の日の晩、ギルモア邸の窓から漁り火の浮かぶ海を眺めながら、フランソワーズは溜息混じりにそう呟いた。言われなくとも分かっているし、おれがそのことばを素直に聞くとは、彼女も思っていなかったろう。長いつきあいだ、お互いのことは、誰よりもよく分かっている。 けれども彼のことだけは、いまだによく分からない。だからこそ、おれはこうして、ここにいる。まっすぐドイツに帰ればよいものを、わざわざ金と時間をかけて、この国に降り立ってしまった。失業中で、一銭でも惜しいのはおれも同じだというのに。 むしろいちばん分からないのは、自分のことなのかもしれない。 玄関口に立ったおれの姿を認めて、しばし彼は、呆然と突っ立っていた。 予想どおり、こんな場末の貧民窟めいたところとは、場違いな格好をしていた。やや着古した観のあるワイシャツに、ツイードのズボン。ただし、今しがたまでソファで居眠りしていたのか、ワイシャツには皺が寄っている。いつでも外に出てゆける格好をしているのが紳士のたしなみだと、いつも口癖のように言っていたものだ。 どう声をかけようか、今さらのように迷った。正面から向き合うと、眼の下に濃く溜まった疲労の色が、痛々しい。その陰を隠すかのように、彼は照れ笑いを浮かべて顎を撫でた。 「よう、死神。ひさしぶりだな」 「……やあ」 「あの口ぶりじゃあ、近々殴り込みに来るとは思っていたがね。まさか三日で飛んで来ようとは、聖ヨハネもご存知あるまい」 おお聖ヨハネ、聖母マリア、などと唱えて、彼は天井を仰いで十字を切ってみせる。形どおりの握手を交わすと、甘くくすんだ、懐かしい匂いがした。彼が好んでいた、刻み煙草の匂いだ。東京で、彼と一緒にあちこち探して歩いたことを、ふと思い出す。まさかこの煙草のせいで、日本での暮らしに終止符を打ち、故国に戻った訳ではなかろうが。 まあ入れや、ということばに甘えて、ドアをくぐった。入ってすぐが洗面所、それからキッチン。ものの六、七歩で、居間まで到達してしまう。さして広くもない居間の壁際には、中古のテレビと電話。それに向かい合うように、古ぼけたソファがでんと置かれていた。 「さっそく敵情視察にお越し頂いて申し訳ないのだが、今日は休園日でね。明日ならば、朝から仕事だ」 「……そうか」 「ホテルは、取ったのか」 首を振ると、彼は手をひらひらさせて、大仰にソファを示してみせた。 「そんな無鉄砲な客人がいつでも泊まれるように、ソファだけは手に入れた」 「嘘つけ、あんたが昼寝するためだろう」 「ははあ、ばれたか」 乾いた声で笑う。その声につられて、おれもようやく微笑んだ。 「長旅、疲れたろう」 「いや、ロンドンで一泊したから、大丈夫だ」 「そうか。それなら、今から飲みに行くってのは、どうだ」 「今から?」 あんたのところには、なにもないのか。……そう訊こうとして周囲を見回し、はっとした。言われてみれば、どこにも酒瓶らしきものはない。キッチンではなく、いつも自室か居間に酒を置く男なのだ。 おれの視線を受け止めて、彼はにやっと笑った。意志のこもったその笑顔に、ふさわしい笑顔をおれも返す。手荷物をソファの横に置いて、手持ちのポンドを確かめた。ひと晩飲み明かすくらいなら、なんとか大丈夫だ。 「おいおい、失業中の客人におごってもらうほど、我輩は零落しちゃおらんよ」 「言ったな、グレート」 「ああ、言わせてもらうさ」 行くぞ、と、彼は顎をしゃくる。ここへ来るまでの逡巡もひとまず忘れて、おれは笑顔で頷いた。 (2)へ ブラウザの「戻る」で、お戻りください。 |