Good to See You(2)










 
 ごみごみとした、迷路さながらの裏辻の角を幾度曲がっただろうか。黄昏の町角にぽつんと灯ったあかりを指さして、彼は宮廷人のような、しなやかな礼をした。
 「ようこそ、我が友よ。あれに見ゆるが、グレアム・ベントンの夜ごとの城だ」
 「グレアム、……なんだって?」
 「グレアム・ベントン。ここでの、おれの名さ」
 ついでに言えば、おれの本名だ。……そんな驚愕するようなことをさらりと言ってのけ、さっさと歩き出す。その背中を慌てて追うと、またぴたりと立ち止まり、肩越しに片眼だけでこちらを振り返る。
 「ハインリヒ、あんまり近寄ってくれるな」
 「なぜだ」
 「おまえさんと並ぶと、我輩の男っぷりがかすんで見える」
 「はあ?」
 馬鹿も休み休み言え、と、猫背をどんとどつく。しかし次の瞬間、しまったと思った。動揺が残っていたのだろう、力の加減がうまくゆかなかったのだ。果たせるかな、彼はすっ飛んで、見事なまでの勢いで地べたに倒れ込んだ。
 「すまん、グレート!」
 「……グレアムだ。あそこでは、おれをそう呼べ」
 鼻っ柱をさすりながらも、彼は歯を見せて、顔中で笑っている。こちらは素直に、口の中で彼の名を呼び直すしかない。なんのことはない、いつもの調子だ。
 ブリキを打ちつけた、なかなか味のある扉を開けると、既にパブには幾人もの客がいた。
 「よう、グレアム! 今日はお早いお出ましだな」
 手前のテーブルにいる男が、大きく手を振った。その向かいに腰掛けていた二人も、彼を発見するやいなや、嬉しそうにグラスを掲げてみせる。店の奥からも口笛と、盛大な拍手が聞こえてきて、さすがにめんくらった。これではまるで、今からショーでもはじまりかねない勢いだ。
 最初に声をかけてきた男たちと握手を交わし、店の奥の連中にも、彼は挨拶を送った。また口笛と、拍手喝采。「今日のネタはなんだ!」と叫ぶ声に向けて、声を張り上げる。
 「お待ちかねのところ申し訳ないが、今宵は臨時休業にさせてくれ。見てのとおり、友人が一緒でね。込み入った話があるんだ」
 「ははあ、さては友人じゃなくて、隠し子だろう!」
 「いやあ、実はまだ右も左も分からんガキの頃に、ゲルマン美女にちょいと痛い目にあわされてね。その結果が」
 どん、とおれの肩をどつく。どさくさにまぎれて、さっきの仕返しか。
 「こいつさ」
 やんやの喝采。ひらひらと手を振って、冗談だと苦笑する彼も、愉しげだ。こちらが口を開けて呆然としていると、勝手に手にグラスを握らされていた。ごつごつとした労働者の手が、てんでばらばらに自分のビール瓶からビールを注いでくれる。もみくちゃにされながら呷ったその液体は、なんとも猥雑で、どこか懐かしいあと味を喉と舌に残した。
 カウンターにへばりついて、なおもぼんやりしていると、くすくす笑う声がした。
 「勘弁してやってくれ、ハインリヒ。荒っぽいが、気のいい連中でね」
 振り向くと、彼が苦笑しながら黒ビールを啜っている。彼らは、と訊くと、顎をしゃくってみせた。みなそれぞれの場所に戻って、それぞれの一杯を愉しんでいる。しかしどこか、もの足りなげだ。
 「いいのか、一席ぶたなくても」
 「明日、今日のぶんまでやるさ。お楽しみは焦らすのが定石ってもんだあな」
 「で、具体的には、なにをやってるんだ。ここでは」
 「いろいろ、思いつくままに」
 カウンターに置いてあったタバスコの瓶を取り上げ、節くれだった指の上で、器用に転がしはじめる。……ひとり芝居の小咄が中心だが、ジャグリングもやる。連中の誰かの特徴をとらえて、まねしてみせる。鉄工所の機械の音。牛の鳴き声。嫌味なポリ公やら、上流階級のお歴々の揶揄。だだをこねる子どもと母親のコント。連中の反応にあわせて、アクセントもつける。面白いと思えば、なんでもやるさ。
 「我ながら、いい舞台を見つけたと思っているよ。芸能プロダクションと契約のできない身でも、こうしてなまの舞台さながらの興奮と緊張感が味わえる。ありがたいもんさ」
 ……ああ、と、おれは溜息をついた。彼のことを、なにひとつ分かってはいなかったのだ。
 あの孤島の基地から逃げ出し、皆で流浪の日々を送っていたころ。いつしか彼としみったれたひとときを重ねるようになっていた。いつも人生は思い通りにならないと、ちびちびと酒を舐めながら、互いの傷も舐めあう。それでも志の高さは、忘れない。いつかは舞台に戻ってみせると、彼が静かに呟くたびに、ひねこびた負け犬根性がシャンパンの泡のきらめきを帯びる。彼の弱さも、彼の輝きも、知っているのは自分ひとり。そう思いこんでいたのだ。
 ところが、メンテナンスのためにひさしぶりに降り立った日本に、会いたいと思っていた男はいなかった。舞台に戻りたいと言って、故国に戻った。そう聞いたときは、心躍ったものだ。これでようやく、彼の長年の望みがかなう。ところがその次の瞬間、愉しそうにフランソワーズが言ったことばに、おれは耳を疑った。
 「遊園地でね、ぬいぐるみの中に入ってるんですって。グレートらしいじゃない?」
 ……見損なった。それが正直な感想であった。
 どこが彼らしい? シェイクスピアの舞台に立つのが、あの男の夢ではなかったか。寂れきった鉄工の町で、子ども相手に、しかも自分の顔すら見えぬ格好で、なにほどのことができる。つい口走ったそのひとことが火をつけて、当人のいない場所で外野同士、らちもない口論になった。勢いあまって、おれは彼の家にまで電話をかけて、留守電なのをいいことに、一方的にまくしたてたのだ。フランソワーズ相手に怒鳴ったのと、そっくり同じことを。
 「……すまなかった、グレート。あんなことを言って」
 うなだれたおれの腕を肘でかるく突いて、彼は乾いた笑い声を立てた。
 「よせよせ、過ぎたことだ。幸いおまえさんは、手紙ではなく電話という手段を取った。手紙と違って、電話で喋ったことは、あとには残らん。ただし」
 言われた者の記憶には、永らく残るがね。……意地の悪い眼で、くちびるの端をすこし、吊り上げる。消え入りそうな心持になって、おれはますます、縮こまった。
 しかし、そのときだった。彼の掌が、そっと背中に触れたのは。
 「最初は腹が立ったのも事実だ。しかし、しばらくたつと、嬉しくなった」
 「……グレート」
 「おまえさんが、我輩のことを本気で心配してくれているのが、嬉しかった」
 「……」
 「ありがとう、ハインリヒ。感謝するよ」
 ぽん、とやさしく背を叩き、彼はグラスのビールを飲み干した。背後から口笛が聞こえる。彼の名を呼ぶ、複数の声。
 「用事は終わったか、グレアム! 明日は休日だからな。皆、懲りずに待ってるぜ」
 「なんならご友人にも、観客に加わってもらおうじゃないか」
 「友だちじゃなくて、あいつのセガレだろ!」
 どっと笑う声に、彼は苦笑して立ち上がった。笑い声が、たちまち歓声に変わる。やれやれ、といった具合に背筋を伸ばしながら、彼は今一度、こちらを振り返った。
 「おれの芸を、見てくれるか」
 「喜んで、グレート」
 「グレアムだ。連中と一緒にいるときは、そう呼んでくれ」
 茶目っ気たっぷりの笑顔のまま、彼は颯爽と、観客たちがテーブルをつめてこしらえた即席の舞台に踊り出る。待ってましたとばかりに、店の照明が落ちる。真上だけにともった灯りに照らし出された彼の姿は、まごうかたなき、ひとりの表現者のそれであった。



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