On the Beach(1)










 
 海。
 母なる海。そう呼ばれるがゆえなのか、時折訪れたくなる場所のひとつだ。そこに人が集まる季節も、そうでないときも。いつも変わらず、海はそこにある。歓喜も憂鬱も、すべてを受け止めながら、母胎として、墓場として、海はそこにある。
 そして、何故かおれたちが海辺に来るときには、雨が降っていることが多い。
 手を握り合ったまま、隣に佇む彼が、毛髪のない頭をもたげ、くすんだ鉛色の空を見上げる。細かな無数の雨粒をよけようともせず、その横顔の気配は、そよとも動かない。
 「しけた天気だな」
 あんたのほうが、よっぽどしけた様子をしているぜ。……それくらいのことばを返したいけれども、とても言えない。彼が何を考えているのか、手に取るように分かるから、おれも笑えずにいる。ただ、握り合った手だけは離さずに。
 きっと雨は、はるか上空からこちらの気分を見越して、降りそそぐのだろう。おれたちには、憂鬱な海の方が似合いということか。
 長い長い人生の、ここが最後の場所であるならば、なおさら。





 
 扉を開けたその瞬間、目に飛び込んできたのは、まがまがしいまでの朱の散乱だった。
 つい先日、ニュースで目にした光景に重なり、思わずあとじさった。あの血塗られた場所に、これから彼と向かわねばならないという現実に、眩暈がする。いくら戦場には慣れているとはいえ、血の色には、いつまでたっても慣れるということはない。機械相手の戦いと、生身の人間の血が流れる状況は、天と地ほどに違うのだ。
 不穏な動悸をなんとか鎮めてから、もう一度、よくよく視線を注ぐ。飛び散ったそれらは鮮血ではなく、真っ赤なバラの花びらだった。おおかた、贔屓筋からの花束だったものだろうが、いずれにしても、常の彼のすることではない。
 おびただしい花弁の血溜まりに囲まれて、彼がいる。床にぺたりと座り込んで、傍らには空のウィスキーのボトルが二本、放り出されていた。ほっぽり出したのは、舞台だけではないということか。
 「……これはこれは、死神殿。ようやっと、お出ましって訳か」
 「……」
 「まあまあ、お得意の仏頂面をやたらと披露するものではない。おひとつ、どうだね」
 「……あんた、こんなところで、何してんだ」
 「ご覧の通り、たったひとりの酒盛りをば。何か、異存でも?」
 肩越しに、おれを振り仰いだ両目の暗さに、どきりとした。これでは、とても問えはしない……今夜の舞台はどうした、などと。
 口調の軽さとはうらはらに、陰惨なまでの鬱をしょいこんだ彼は、また項垂れてしまった。しかも、『酒盛り』とは言いながらも、既にウィスキーのボトルは空っぽで、戸棚の中の他の酒には、手も触れていない。底知れぬ彼の闇の深さに、おれは戦慄した。
 正面へ、回り込む。向かい合って、床の上にじかに腰を下ろしたおれを、彼は硬い表情のまま、黙って見つめていた。酒に焼けた鼻先は赤みを増しているが、決して酔ってはいない。むしろ、こころはガラス細工の針のように尖り、震えている。ほんのすこしの衝撃でも、もろく崩れてしまうに違いない。
 戻りたくてたまらなかった舞台に、今またようやく立てるようになって、ちらほらと演劇専門誌にも取り上げられるようになってきた。小鼻を指先で掻きながら、そう告白してくれた彼の、含羞を滲ませた笑顔が忘れられない。ふた月ほど前には、希望に満ちていたはずではないか。なのに、何故逃げ出すのだ。期待を寄せるマネージャーも、観客すらも裏切って、何故逃げ出す? 何故、酔えもせぬ酒に溺れようとする? 自分から、チャンスの芽を潰すだなんて、浅はかすぎはしないか? 
 いつだって、電話一本かけてくれさえすれば、おれはあんたの元へと飛んでゆく。おれなどでは、あんたの憂鬱を癒すに足らぬということは、百も承知だ。けれども、不安なのであれば、ずっと傍にいよう。あんたを抱きしめていよう。なのに、何故声をかけてくれない。何故? ……さまざまな問いかけが、おれの内側で明滅する。だが、口にできそうにもない。どうしたと、そう訊くだけで、彼はくずおれてしまいそうだ。
 ……いや、逃げているのは、おれ自身かもしれない。思い浮かべた問いはすべて、まがいものだ。彼が逃げ出した理由を、おれは知っている。ここへ連絡もせずに来たのも、その理由ゆえなのだから。苦しむ彼を前にして、何ひとつ出来ぬおのれの不甲斐なさに、胸がきりきりと痛む。あまつさえ、おれの訪問は、彼の苦しみに拍車をかけているだけだろう。
 投げ出された手を取り、そっと握り締めたとき、ぼそりと彼が、呟いた。
 「……今すぐ、発たねばならんのか?」
 「ああ。ともかく、一刻も早くと言われた」
 あんたには舞台があるから、おれひとりだけでいいと言ったんだが、イワンが。……
 重たげにかぶりを振って、彼は口の端を、うっすらと歪めた。あの赤ん坊め、と、あまり心のこもらぬ調子で、毒づいてみせる。
 「潜入せにゃならんのなら、そりゃあ、我輩の出番だろうよ。気は進まんがね」
 互いの手の感触を確かめながら、おれたちはふたりして、これから向かわねばならぬ戦場へ、思いを馳せる。もう長い間、無益な泥仕合を繰り返している、東地中海の一角。ここ数年の状況のひどさには、誰もがため息をつかざるを得ないほどだ。つい先日も、血みどろになって泣き叫ぶ人びとと、空爆を受けるみすぼらしい街並みの映像が、ニュースで流されたばかりだった。
 争いたければ、やりたい奴らだけでやるがいい。平和を望む者を巻き込むな。これまでどれほどの人間が、血を流すなと訴えてきた? お前らの欲望ゆえに、ここにもひとり、憂鬱に取り憑かれている男がいる。生きることと、戦うことの狭間で、みじめにゆれうごきながら。
 もう、だめだ。どうすればいいのか、……分からんなあ。
 歌うように、彼は呟いて、また自嘲じみた笑みを漏らした。
 生きるために、戦う。生き延びて、舞台に立てば、今度は自分が分からなくなる。所詮は戦いのためにつくられた自分が、こんなことをしていても、いいのかと。
 そりゃあ、演じることは、愉しいさ。けれども、……果たして、おれは愉しみに浸っていても、いいのか? 一度は死んだも同然の身だ、既におれは、生きていることを許されぬ存在なのではないか? そんなことを考えて、迷いながら舞台に上がった途端……どうしていいのか、分からなくなった。
 「……なあ、アルベルト。教えてくれ」
 滂沱の涙を隠そうともせず、彼はうめいた。腕に、筋張った冷たい指が食い込んでくる。おれたちは、生きていていいのか? 戦いに出ることを放棄するのならば、生きている価値はないのか? 生きている価値がないのなら、おれに演じている資格は、演じることを愉しむ資格は、ないのか? なあ、お願いだ、アルベルト。おれに教えてくれ!
 問いかけへの答えを、おれが持っているはずもない。くちびるを噛んで、視線を逸らせる。他でもない、おれ自身が、彼と同じ問いを抱え、答えを探してさまよっているのだ。ふたり、寄り添いはじめたのは、きっとおれたちが同じものを求めていたからに違いない。生きている、生き続ける理由を、確かなものとして掴んでいたかったからに違いない。
 寄り添えば、おのれが生きていると感じられる。けれども、それで生きることを許された訳ではない。ひとのこころには、寄り添うだけでは癒えぬ傷も、照らせぬ闇も、あるのだ。
 「逃げよう、グレート」
 きっぱりと宣言したおれを凝視して、彼はまなじりが裂けるほどに、両目を見開いた。
 「……アルベルト、おまえさん……何を言っているんだ」
 「おれは正気だよ」
 握り締めたままの手を引いて、彼を促す。よろよろと腰を上げた彼を、渾身のちからで、抱きとめた。
 「どこへ逃げる? イワンのテレパシーも届かない、どこか寂れた、遠い場所へゆこう。あんたの望むところへ」
 彼はしばし、黙ったまま俯いていた。しかし、握り合わせた手を離さないことで、はっきりとおれに同意を示していた。思いを通じ合わせるのに、余計なことばなど、何ひとついらない。おれたちの恋は、そんな安っぽいものではないはずだ。
 涙にかすむ目で、しっかりと、互いを見つめる。ゆっくりと、彼のくちびるが開かれるのが、滲んだ世界の中でもはっきりと確認できた。
 「ならば……海へ、連れて行ってくれ」
 「……海?」
 「そうだ、海だ」
 誰もいない、寂れた砂浜がいい。そう、ビーチだ。出来れば、夜明けまでにたどり着ける、ビーチがいい。
 そこに、何があるかは分からない。けれども、彼の心は決まっている。ならば、おれは彼を、海へと導くだけだ。他に何ひとつ、愛してやまぬひとにしてあげられることが、ないのなら。
 もう一度抱き寄せ、しっかりと背に腕を回す。何があっても、決して離れぬように。今このときも、この先も、……来世までも、永遠に。
 「なら、ゆこう。……海へ」
 一緒に。どこまでも、あんたと一緒にゆくから。
 立ち上がり、歩き出す。花びらの血溜まりをかきわけて、ここから別の場所へ。戦場でもなく、おだやかに日々を紡ぐ日常でもなく、どこか遠くへ。
 そこに、求める自由や安寧があるとは、限らなくとも。




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