Thrill Me (1)









 氷雨そぼ降る、春の午後。
 おれにしてみれば、この程度の雨ならば、冷たいとは感じられない。今このとき、ロンドンに降り注ぐ雨に比べれば、生暖かいとさえいえるだろう。しかし、眼下の大通りを行き交うこの国の人びとは、皆スプリングコートの襟を立て、傘にしがみつくように足早に歩いてゆく。
 何ともまあ、寒々しいものだ。見ているこっちまで、凍てつく雨に濡れそぼり、震えているような心持になってくる。
 「巷に雨の降るごとく、わがこころにも雨の降る、か……」
 ぼんやりと呟いたそのとき、背のすぐ後ろから、思わぬ声がかかった。
 「さすがだな、グレート。フランス語の発音も、完璧だ。フランソワーズに聞かせたいくらいだよ」
 「うわっ」
 驚愕のあまり、おれは床から20センチほど飛び上がってしまった。
 慌てて振り返ると、そこには今朝、玄関でくちづけを交わし別れてきた、おれの恋人が立っていた。手にした大きな紙袋を大事そうに抱え、自分の髪についた水滴よりも、そちらをそっとハンカチで拭う。
 「……どこから、入ってきたんだ」
 彼は無言で、右手奥の小窓を顎でしゃくって示してみせる。この部屋は地上三階、それも天井の高い建物だから、普通の建物の四階ぐらいの高さはゆうにあるはずだが、まあ……確かに我々にとっては、朝飯前の仕事ではある。
 「何だってわざわざ、そんな手を使って……おれは別に軟禁されてるんじゃないんだし、馬女史に言えば、なんとかならないか?」
 彼女の名を口にしただけで、彼は眉根をかすかに寄せた。……おっと、危ない。
 「張大人も、もっと気の利く人選をしといてくれればな。確かに仕事は出来るんだろうけれど、ここの連中、融通きかない堅物ばっかりだぜ? 正面から面会を申し込んでも、追い返されちまう。『支配人は多忙をきわめておりますので、いかなる事情でも勤務時間中の面会はお断り致します』、だとさ」
 最初から無理だって分かってるのに、おもてから吶喊するなんて、兵法に反するし馬鹿げてるだろ? 
 勝気な笑みを浮かべながら、彼は小首を傾げてこちらを見やった。張大人がつけてくれた、マギー・チャン似の美人秘書に焼きもちを焼いているのはおれもよく知っているが、それをはっきりことばに表すのは、彼の矜りが許さないのだろう。
 可愛いものだと、思わず微笑みたくなる。微笑んでしまう。
 柔らかな銀髪に宿った雨のしずくが、ダイヤモンドをちりばめた冠のように、きらきらと輝く。拭いてしまうのがもったいないくらいだが、このままでは、風邪を引かせてしまう。
 「アルベルト、こっちへおいで」
 ポケットからハンカチを出し、手招きしてやると、彼はいそいそと近寄ってきて、優雅に膝を折り、おれの目の前で身をかがめてみせた。そっと、ハンカチに水滴を吸わせるように拭ってやると、こちらを上目遣いに見上げて、にこにこと嬉しそうに微笑む。寄り添いはじめて既に十数年、去年の春からはひとつ屋根の下で生活を共にしていながら、いまだにおれに触れられると頬を染め、恥じらいの中にも溢れんばかりの喜びを閃かせる。もっと触れて、もっと慈しんでと、雛鳥のように甘える。
 おれの、いとしいアルチュール・ランボォ。
 「……にしては、ちょいと歳を食いすぎているようだが」
 「悪かったな。10歳以上、オーバーしてるさ。でもあんたは、ちょうどいいくらいかな。ムッシュ・ポール・ヴェルレーヌ」
 巷に雨の降るごとく……と、先ほどのおれの口調を真似て呟かれたフランス語は、いささか角に引っかかりすぎている。もうちょっと、r音を抑えてごらんと言うと、じゃあ口移しで教えてくれと、いきなりくちびるを重ねてきた。
 目元とくちびるの端に、うっすらと笑い皺を浮かべて、微笑む白い睡蓮。無邪気な笑顔は、それでも歳よりずいぶんと幼く見えて、ランボォの呼び名もまんざらではない。もっとも、彼はランボォのような慎みを知らぬ若造とは、似ても似つかぬ存在だ。その魂はもっと高貴で、純粋で、……深くやさしい愛を、絶えずおれに注いでくれる。
 ひとしきり、深い挨拶を交わしてから、おれは彼がここに来てくれた理由について、まだ訊いていないことに気がついた。
 「ところで、艱難辛苦を超えてここまでやって来てくれたのには、何か訳があるんだろう? いくらおまえさんが堪え性がないといっても、今晩9時まで待っていただければ、予約なしで我輩を独占できるはずだが」
 もったいぶって尋ねると、彼は両目をまるく見開いた。
 「あんた、ものすごく重要なこと、忘れてないか?」
 思わずひやりとして、おれは眉を上げた。
 まさか、彼との記念日か何かじゃなかろうかと、記憶をたどってみるが、それらしいものに思い当たらない。それに、こちらをじっと見つめる彼の表情から窺うに、忘れれば彼の怒りを買うような種類のものではないらしい。
 「……何だ?」
 「おいグレート、ぼけちまうには、ちょっと早すぎるぜ。今日はあんたの、誕生日だろ」
 「……ああ、そういえば……」
 言われてみてはじめて、おれは壁のカレンダーに目を走らせた。秘書の馬女史が変えてくれたのだろう、昨日までのフィレンツェの「花のサンタ・マリア寺院」ではなく、どこかの寺院の庭で桜が舞い散る、いかにも日本らしい光景を写したページが開かれている。外はあいかわらずの氷雨だが、今日から4月がはじまったことに、変わりはない。
 どうもこのところ、仕事が忙しくてすっかり失念していたようだ。それに、誕生日など祝おうと、自分で思ったことはない。彼と寄り添いはじめてからは、彼が毎年忘れずに電話をくれたり、甘さを抑えたラムケーキなど作って、送ってくれたりしたものだが、やはり、なんとなく……照れくさいものだ。誕生日という、ひどく私的な祝い事を公の場に持ち出すことは、おれの趣味ではない。
 ぼんやりと宙に視線を漂わせるおれの首根っこに、彼の腕が伸びてきて、ぐいと引き寄せられた。
 「昼飯、まだ食ってないだろ。いつも中華じゃあきるだろうから、特別デリバリー・サービスをしに来た」
 長い前髪の隙間からのぞく、ラムネ玉のような青い目が、いたずらっぽく微笑んでいる。だって、せっかくの誕生日に、あんたひとりでデスクに向かってるかと思うと、耐えられなくて。あんたみたいないい男が、誰にも誕生日を祝ってもらえないなんて、そんな馬鹿なことがあって堪るか。
 首根っこが、彼の抱擁から解放される。おれの許から軽やかなステップを踏んで、彼はデスクの上に置かれた紙袋へと歩み寄った。
 保温機能つきの弁当箱に詰めた料理を次々と取り出しながら、彼は早口にメニューの説明をはじめた。鰯のマリネに、あんたの好きな鴨肉のロースト、マッシュポテトと、温野菜。脂の乗った鴨だから、ローズマリーをふんだんに使ったんだ。炭火でやりたいところだったけれど、……時間もなかったし、ガスオーブンで我慢したよ。パンも焼いたんだ。今度はパリのときみたいに焦がさなかったから、ちゃんと味わって食ってくれよ。食事に合わせるワインは……エスト・エスト・エストを買ってきたけれど、あんたのお眼鏡にかなうかな?
 手品師のような鮮やかな手つきで、テーブルクロスをふわりと広げる。あっけにとられるおれを尻目に、彼は接客用の応接テーブルの上にそれを敷くと、料理を並べはじめた。
 「……おい、一応我輩は、仕事中ってことになってるんだが……」
 「文句言わない。年に一度の祝い事なんだからさ、お堅いこと言いっこなしにしようよ」
 うきうきとはしゃいだ顔でウィンクを飛ばされると、こちらとしては何も言えない。スタッフとの打ち合わせは正午に終わっていたし、実際彼が現れるまで、企画書の内容について思案に暮れながら、新宿の街並みを眺めていたのだ。すこしくらい、こうして健気な恋人の心遣いに身を任せても、いいだろう。
 まあ、いつもよりいささか豪華な昼食を取るだけだ。アルコールも入るが……たかが、白ワイン一本。仕事に差し支えるほどには、なるまい。
 おれの心を見透かしたように、目の前にすいと、ワイングラスが差し出された。
 「どうぞこちらへ、主賓どの」
 腰をかがめ、舞台のシメにするような礼を、うやうやしく捧げてくれる。やけに芝居がかった口調が、笑みを誘った。一緒にいる時間が長いせいか、どうやら彼にまで、おれの仕草や口調が感染してしまったらしい。それとも、……彼が故意に、おれを真似ているのか?
 「主賓ったって、ここにはおまえさんとおれしかいないだろうに」
 「だからこそ、ちゃんとはっきりさせておくのさ。いつもとは違うんだ。今日はあんたのお祝いで、おれがホスト。心ゆくまで、もてなしてあげるよ」
 グレート、おれの紳士。あんたの生まれてきた日に、乾杯。
 触れあわせたワイングラスの縁が、ちりんとみずみずしい音をたてる。すっかり彼のペースにのせられて、おれはワインを口にするよりも先に、酔っていた。


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