Wedding Song (1)









 あんたに頼みがある、と、受話器の向こうから深刻極まる声が響いてきたとき、おれは仕事帰りの疲れも忘れて、思わず背筋を伸ばした。
 「一体、どうしたっていうんだ。おまえさんらしくもない」
 「……らしくもないって、どういう意味だ」
 「ずいぶんと、弱気じゃないか。『黒い幽霊団』の残党に、不意討ちでもくらったか」
 鼻先で、ふんと笑う声。
 「それしきのことだったら、こんなに落ち込んだりしないさ」
 残党の一個師団やそこら、ひとりでぶっ潰してみせると、彼はさらりと言う。まあ、彼なら出来るであろうし、やりかねない。第一、戦闘能力では格段に劣るおれに、助けなど求めはしないだろう。いくら、地理的にも心理的にも、もっとも近いところにいるとはいえ。
 「なら、一体何なんだ。おまえさんを、そこまで弱気にさせている原因は」
 「……まあ、聞いてくれ」
 それから、今のうちに言っておくけれど、聞き終わっても笑うなよ。
 彼としては、先手を打ったつもりなのだろうが、これでは話の先が大体、見えてしまうではないか。微笑んだ気配を感じ取られないように、おれは先を促した。






 彼から例の電話をもらってから、約一ヵ月後のある冬の朝。おれは、土日を挟んだ4日間の休暇をもらって、ベルリンへと飛んだ。
 運送業もショウビズ界も稼ぎ時の年末年始、せめてクリスマスは一緒に過ごすようにしてはいたのだが、今回はそれも叶わなかった。彼に会うのは、二ヵ月半ぶりのことになる。いつもならば、逢瀬に4日も時間をかけられるのならば御の字であるが、今回はいささか事情が異なる。物足りなげにくちびるを尖らせ、しがみついてくる恋人の姿を思い浮かべ、思わず頬が緩んでしまう。
 ……あ、いや、そんな場合ではない。「役作り」の準備を、しておかないと。
 参考までにという訳でもないが、おれは空港で買った「TIME」を広げ、ページを繰った。中ほど、古今の名画特集と銘打たれたページが始まり、古の名女優たちのスナップが、幾つも目に飛び込んでくる。イングリッド・バーグマン、マレーネ・ディートリヒ、ヴィヴィアン・リー、アリダ・ヴァッリ、ドミニク・サンダ(我輩の好みだ)……思わずうっとりと、見入ってしまう。
 しかし、ほどなくこの「資料」があまり役に立たないことを見出して、おれは溜息をついた。彼女たちのイメージに合うのは、むしろ彼のほうだ。その彼に似合う女性といえば、どういったイメージを、思い描けばよいだろうか。エコノミークラスの狭苦しい座席で、おれは頭をぶつけないよう、気をつけながら頬杖をついた。
 つまり、こういうことなのだ。彼の職場の同僚男性が、このたびめでたく結婚式を挙げることとなった。これでまた、彼は職場で唯一の……しかも世間で言うところの、トウのたった30代の独身者となってしまう。そして、いつも彼を「天然ボケ」と称しては笑い話のネタにしている会計の女性(彼女も既婚者だ)に、どうせあなたみたいな朴念仁には、恋人すらいないんでしょうと、からかわれた。それにむっとして、つい、口走ってしまったというのだ。何てこと言いやがる、おれにだって、数年越しの大事な恋人はいるんだ。遠距離恋愛で、なかなか逢えないだけだ、と。
 むきになっていたものだから、職場の皆に、その叫び声を聞かれてしまった。そして……結婚式に、その恋人を連れてくると、無理矢理約束させられてしまったというのだ。まさかその「恋人」が、ハゲのしょぼくれた中年男であるとは、夢にも思わぬ同僚たちによって。
 ことの顛末を聞いたとき、おれは腹を抱えて、爆笑してしまった。話し始める前に、わざわざ彼が「笑うな」と釘をさした気持ちは、まあ分からないでもないが、しかしこれが笑わずにいられようか。まあ、彼も笑われることは覚悟の上だったようで、呼吸すらうまく出来ずにひいひいと電話口でうめくおれの耳に、自分でも苦笑を洩らす声が聞こえてきた。
 建設的に考えれば、いい傾向だと言うべきなのだろう。ひとりの人間として、彼も社会の中に溶け込み、気のいい同僚に囲まれ、それなりに愛されている証拠である。それがもし、おれと恋することでもたらされた変化なのだとしたら、これほど喜ぶべきことはない。身に余る光栄というやつだ。もっとも、彼の輝きに惹かれて、ちょっかいを出す輩が出てきたら、困りものではあるが……。
 考え込んでいるうちに、飛行機はあっという間にベルリンに到着した。到着ゲートを出るや否や、人ごみをかき分け、まさしく駆け寄るようにして彼が姿を現した。
 予想通り、泣きそうな顔をしているのを目の当たりにすると、思わず笑みが浮かんでしまう。
 「グレート……待ちくたびれたよ!」
 「おや、飛行機は定刻どおりに到着したはずだが?」
 「そうじゃなくて、おれの気持ちも考えてくれ!」
 荷物を奪われ、背中を押されるようにして、彼の愛車に乗り込む。シートベルトを締める間もなく、乱暴に接吻された。
 「……逢いたかった」
 がっちりと抱きついて、彼はおれの肉体の存在を確かめるように、頬を胸に埋めて擦りつける。無理もない、二ヵ月半という時間は、淋しがり屋の彼にはいささか長すぎる。そろそろ、本腰を入れて一緒に暮らすことを考えるべきだろうかと、おれは考えている。
 いつまでも、抱擁を解こうとしない彼の肩を叩いて、促した。
 「さあ、行こう。準備を整えなくちゃいけないだろう?」
 「……ああ」
 物足りなさそうに、くちびるを尖らせるさまも、思い描いていた通りだ。あきれるほどの素直さは、おれが愛してやまぬ彼の美質のひとつではあるが……こんなことだから、同僚たちのからかいの対象となるのだろう。
 可愛らしい、おれの守護天使。いつまでも無垢であってほしい、けれどももう少し、浮世に染まってほしいという、相反する思いが交錯する。
 銀色に輝く、彼の魂そのままに素直な髪に、そっと指をくぐらせる。指の間に通う柔らかな感触に、おれだって焦がれていたのだ。そして、なめらかな頬のぬくもりに。ももいろのくちびるの甘さに。
 くちづけてやると、ようやく納得したように彼はおれを解放し、ステアリングに手を添えると、キーを回した。






 デパートに入る直前、彼はあまり人気のない路地を選ぶと、車を停車させた。地下駐車場に入る前に、監視カメラに映っていたのが男ふたりなのに、出てくるときに男女のカップルになっていたら、もし何か事件があった場合、面倒なことになる。「道具」を揃える前に、変身しておくに越したことはなかろう。後部座席に移動すると、おれはこっそり借りてきた女性ものの服を取り出してから、身につけていた服を脱いだ。
 ふと視線を感じ、ミラーに目をやると、そこに映る彼と目が合った。にやにやして、おれのことをじっと見つめている。
 「こら、何見てるんだ」
 「……二ヶ月半ぶりだと思うと、恋しくて仕方がない」
 あんたの肌が、と呟きながら、そろそろと手が伸びてくる。くちびるの間からちろりと赤い舌を覗かせるさまが、ひどく艶やかで、思わずどきりとさせられた。おれのことを求めてくれるのは嬉しいが、ここでいきなりカーセックスに突入するような年齢ではないし、そんなことをしていたら、時間が足りなくなる。咳払いをして、伸びてきた手を指一本で押し返した。
 「お楽しみは、後でゆっくり」
 「……」
 「いい子にしていたら、あとで御褒美があるもんじゃないのか、アルベルト?」
 くちびるを尖らせ、拗ねた表情をつくりかけた彼の目が、次の瞬間まるく見開かれた。そのひとみに、凛とした金髪の美女の、それも全裸の姿が映し出されている。
 「……それともこっちのほうが、お楽しみには適しているかね?」
 下着を着け、ブラウスに袖を通しながら、おれは茶目っ気たっぷりに微笑んでみせる。おれの変身には、慣れているはずの彼であるが、ひどくどぎまぎしているようなのは……やはりこの姿のせいだろうか。まあ、無理もない。男ばかりの職場で、妙齢の女性と接する機会など、そうはないに違いないのだから。
 数分後、デパートの地下駐車場に移動し、まだ呆然としている彼に向かって、おれはコケティッシュに髪を掻きあげながら、言った。
 「エスコート、してくださいます?」
 「え? ……ああ……」
 意味が分からないのか、彼は目を白黒させる。おれはつい、いつもの表情に戻って、横のドアに視線をちらと走らせ、顎をしゃくった。
 「すまん、グレート」
 「グレートじゃないだろ、『グィネヴィア』」
 「……ああ、そうか……」
 ほとんどつんのめりそうになりながら、彼は外に転がり出て、車のドアをぎこちなく開ける。おれは完璧に優雅な動作で、ハイヒールに包まれたつま先を、すらりと通路の上に降ろした。




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