Wedding Song (2)









 心配は、ひそかにしていたのだが……それにしたって、悪乗りが過ぎる。
 近頃はどこもかしこも喫煙規制がしかれていて、いくらパーティ会場であっても、屋内では煙草ひとつ吸えない。そのこともあって、おれは苛々と、上機嫌で同僚たちと会話を愉しむ彼……いや、彼女? くそう、一体どう呼べばいいんだ……の背中を睨んでいた。
 ロンドンから到着したばかりだというのに、デパートの貸衣装コーナーでの、彼のはしゃぎようといったらなかった。ひとみの色に合わせて、萌黄色のドレス。そのドレスに合わせて、クリーム色のビーズをあしらったハンドバッグ。同系色のハイヒール。更には結婚式のミサ出席用のえんじのスーツと、それにあわせた黒いエナメルのバッグ、コート。どれも、かなり値の張る代物であるらしいということは、言われなくたって分かる。そのことは、賃貸料の高さにも現れていた。きっと、手入れも難しいのだろう。クリーニング代も、高くつきそうだ。頭を抱えたくなる。
 おれが彼に助けを頼んだ以上、賃貸料、その後のクリーニング代はおれが支払うのは、まあ当然だろう。しかしまったく、貸衣装業が存在しなければ、破産していたところだ。女をやってゆくには、おそろしく金がかかるものらしいということに、おれは遅ればせながら気がついた。
 しかし、本当に頭を抱えたくなったのは、懐から出ていった金額のせいではない。彼ときたら、身も心も女性になりきって、ドレスひとつ選び出すにもえらく時間をかけたのだ。ひとつひとつ、試着をしては、答案を採点する教師のような目になって鏡をためつすがめつし、その度に
 「どう、アルベルト? 似合う?」
などと訊いてくるのには、参った。おれは……一体どう答えたらいいものか、途方に暮れつつ、生返事を返す。何しろ、日頃彼に服装のチェックをされるのは、こっちのほうなのだ。いちいちおれなんかに訊かなくても、自分で判断くらい簡単に下せるだろうと、愚痴のひとつも言ってやりたくなる。
 その結果、選び出したドレスを、彼は今、身につけている。おれの苛立ちの原因は、まずそれがひとつだ。






 萌黄色のドレスの背中は、思い切りよく開いている。ほろ酔いの肌は淡く薔薇色に染まっていて、品のよい艶やかさが匂うようだ。その姿に、同僚の男たちどころか、その奥さん連中の視線までもが奪われる。絡みつくような、舐めるような視線が、彼を品定めする。
 耐えられない。彼は、おれのものなのに。彼の肌は、おれだけの秘密のはずだ。おれのからだを、粘膜の内側の熱とそのうねりを、彼だけが知っているように。彼があんな目で見られていると、まるでおれまでが、裸に剥かれて放り出されたような気分になってくる。
 もちろん、苛立ちの原因は、それだけじゃない。彼は持ち前の華麗な会話術で、この場にいる人間すべてを魅了する。そう……目立ちすぎるのだ、わざわざあんな、美女の姿にならずとも。彼の一挙手一投足に、一座の人間の視線が集中する。そこに、おれの介入する余地はないということだ。これでは、ふたりきりになるなど、叶わぬ空しい願いでしかない。
 パーティ会場で、彼とふたりきりの時間を持とうなどと、考えるおれの方が間違っているのだろう。けれど、納得いかない。手の中のビール瓶を握り潰しそうになって、おれは慌てて、それをテーブルの上に置いた。
 そんなおれの肚のうちを知ってか知らずか、スーザンがカクテルグラス片手に、近づいてきた。
 「放っておいていいんですか? 彼女……ええと、グィネヴィアさん、でしたっけ」
 「ああ、大丈夫だろうさ。あのとおり、ドイツ語も出来るし、おれよりよっぽど会話上手だ」
 おれの視線を追って、スーザンの視線も、テーブルの向こうに注がれる。そこには相変わらず、同僚たちに囲まれて、談笑する彼の姿があった。どうせ、おれのことをネタにして、面白おかしく話して聞かせているのだろう。
 「確かにそうかも。私もさっき、ちょっとお話しましたけど、打てば響くって感じで、やっぱりイギリスの方は、違いますよねえ。なんたって、シェークスピアの国のひとだもの」
 あそこにいるのは、そのシェークスピアを十八番にする「男」なんだとは、まさか言えない。ビール瓶を手放したものの、また何かを呷りたくなって、おれは運ばれてきたシュタインヘイガーの小さなグラスに手を伸ばした。
 「ドン臭い天然ボケのドイツ人には、ちょっと勿体ないくらい素敵な女性ですよねえ」
 「……どういう意味だ」
 思わず、眼を剥いて睨みつけてしまう。おお怖い、と、スーザンは大袈裟に肩をすくめた。想像以上に剣呑な顔つきになっていたのか、彼女はそのまま、離れていってしまう。シュタインヘイガーをひと口で呷ると、おれは叩きつけるようにグラスを置き、外に出た。ともかく、もう限界だ。
 あそこで、おれの同僚たちに囲まれている女性は、彼に他ならない。それは、分かっている。けれども、その姿かたちは常の彼とは程遠いし、何より声だって、まるで違うではないか。せっかく彼に逢えると……街中で、誰の目を気にすることもなく手を繋いで歩けると、何週間も前からこの日を心待ちにしていたのに、今おれの手の中にある、この感情は、何なのだ。ただの苛立ちか。それとも……嫉妬か。だとすれば、一体誰に対する?
 今すぐ呼んでほしい。アルベルト、おれの守護天使、と。おまえさんは、いい子だよ。誰よりも、おまえさんがいとしいよと、彼の声で。どんな美しい音楽よりも、おれの耳に心地よく響く、あの声で。
 部屋の中から、どっと笑い声が聞こえてくる。その中心にいるのは、あいかわらず彼だ。サイボーグの仲間たちと一緒にいるときと、状況はひとつも変わらない。なのに、今このパーティ会場で、おれの居場所はない。彼が、彼の姿をしていないという、たったひとつの違いだけで。
 居たたまれなくなって、おれは右手の指を噛みしめた。人工皮膚に覆われていても、それはひどく冷たくて、おれの心までを、凍てつかせるようだった。






 スーツのみで立っているには、1月のベルリンの夜気は冷たすぎる。凍えているせいばかりではない震える手で、煙草を取り出す。傷だらけのジッポーを擦りあげたが、オイル切れらしく、いくら擦っても火がつかない。
 「くそ、ライターにまで、舐められやがって……」
 ひとりごちて、苛々とポケットをまさぐる。と、そこへ、背後からマッチの灯が差し出された。
 「オイルの臭いがつくと、せっかくの香りが台無しになるぞ」
 「……」
 そっと近づいてくる、嗅ぎ慣れぬ香水の匂い。頬を寄せるように、おれの煙草から火を受けた彼の煙草も、同じ銘柄のものだ。もともとは、彼が好きなこの銘柄を、おれも吸うようになったのだが。
 咥え煙草のまま、そっぽを向いたおれに、彼は問うた。
 「どうした……何を、怒っている? デパートにいるときから、ずっと機嫌が悪かったろう」
 「……」
 姿は女性のまま、声だけ、もとの彼のものに戻っているのはかなり奇妙だが、それだけでも気持ちがほぐれるのは否定できない。三半規管をやわらかな羽毛で撫でられたような錯覚に陥って、おれは陶然となった。
 もっとその声を聞きたい。手を握って、この身を抱きしめてもらって……なだらかだけれども、しっかりと頼りがいのある彼の肩に、首を預けてみたい。彼の匂いが、彼のくちびるが、恋しい。恋しくて、たまらない。
 胸がちぎれるほど切ない気分に苛まれ、おれは振り返って、彼を見た。そこにあるのは、金髪の女性の姿。彼の姿ではない。
 「……別に、なんでもない」
 「また、強がりを言って。泣きそうな目をしているぞ」
 機嫌を悪くさせたのは、そんな目にさせたのは、一体誰のせいだと叫びたい。八つ当たりだとは、分かっているけれど。
 「外でおおっぴらに手を繋げると言っていたのは、おまえさんのほうじゃなかったか? せっかく一緒にいられるっていうのに、デートの最中から、あんな仏頂面を下げられたら、百年の恋も醒めるってもんだぞ」 
 「何がデートだ! 分かっているくせに……あんたはおれに、言わせるつもりか」
 口を閉ざしたまま、哀しげに彼はおれを見上げている。視線の位置も、いつもよりだいぶ低い。そうだ、こんな違和感を抱いたまま、何が逢瀬だ。何が……。
 百年の恋も醒めるだと? ならば、あんたの想いも、醒めてしまうのか。
 「おれの恋人は、あんただ。『グレート』」
 名前をはっきりと呼び、睨みつけてやる。しかし、目が涙で半分、霞む。
 ああ、おれはどうしてこう……彼の前で、泣いてばかりいるのだろう。いつだって、白旗を掲げているのは、おれの方だ。彼が好きで、恋しくてたまらなくて、想いは心臓をきりきりと締め付ける。彼に触れられ、抱きしめられることによって、ようやく癒されるその痛み。痛みは甘やかな喜びに昇華され、彼のくちびるに拭ってもらうことで、涙はあふれることを止める。
 限界だ。もう、涙をこらえられない。指の間から、吸いさしの煙草がぽとりと落ちる。ぼろぼろと、頬の上を伝いはじめた涙を拭うことも忘れて、おれは呆然と立ち尽くしていた。
 「ああ、こら……泣いてくれるな……」
 やさしく、肩に触れるその手は、当然のことながら、まだ女性のものだ。おれは激しく、かぶりを振って、その手を振り払ってしまった。
 「いやだ! その姿のままで触るな」
 おれが欲しいのはグレート、あんたの手だ。あんた以外の人間に、そんな風に触れられたくない。抱きしめられたくなんかない。おれが愛しているのは、あんただ。グィネヴィアなんて名前の、実在しない女じゃない。グレート・ブリテンという名の、実在する……おれの傍らにいてくれるはずの男だ。
 矛盾しているのは、百も承知だった。どんな姿をしていようと、おれの前にいるのは彼に他ならない。おれは、彼の魂を愛しているはずなのに。からだはその容れものに過ぎないと、納得していたはずなのに。でも、やっぱり……触れてもらいたいのは、彼の手。おれの涙を拭い、背中を撫で、宥めてくれる手。ちょっと筋張っているけれど、暖かくて弾力のある、彼の手なのだ。
 もう一度、彼の手が伸びてきて、今度は強い力で強引に抱きしめられた。振りほどこうともがくが、ほっそりとしたその腕に込められた力は、あきらかに彼のもの。顔を覆って、声を上げて泣き出すおれの背を、そっとあやすように撫でてくれるその動きも……あきらかに、いつもの彼のものだった。
 「さあ、ほら……いい子だから、もう泣くな。おまえさんは、ちっとも悪くない」
 「……」
 もっと言って。もっと強く、抱きしめて。香水の匂いはいつもと違うけれど、その奥に、彼の匂いを嗅ぎ分けたくて、おれは彼の首元に鼻を擦り付けた。
 「まったく、あいかわらずの泣き虫だな、おまえさんは」
 「……持って生まれた性格なんて、そう簡単に変わるもんじゃない」
 「だとすれば、おれの性格も、死ぬまでこのままだな」
 お調子者の、グレート・ブリテン。演じることの楽しさに、つい、大事な恋人がどんな気持ちでいるのか、忘れちまっていたとはね。まったく……お笑いだ。
 背を撫でていた手の動きが、止まりそうになる。止めないでくれと、おれは彼にしがみついて、必死でかぶりを振った。
 「すまない、アルベルト。また、おまえさんを泣かせちまった」
 「……いいさ。おれも、パーティ会場で泣き出すなんて、どうかしてる」
 「許してくれるか?」
 「許すも何も、おれは、あんたなしじゃ生きていけないんだから」
 抱きしめてくれさえすれば、それでいい。この抱擁が、何より欲しかったのだから。
 「ちょっとー、準主役のおふたりさんが、何でこんなところに……あっ」
 はっとして、おれたちは顔を上げた。目の前に、スーザンとその亭主が、あっけにとられて立ち尽くす姿があった。
 「……ごめんなさい、お取り込み中?」
 「いや、そんなことはない。今、行くよ」
 泣いていたことを、気付かれただろうか。暗闇だから、たぶん大丈夫だとは思うが……
 スーザン夫婦が中へ戻ってから、抱擁を解くと、彼はおれの背に片手を回したまま、寄り添った。さあ、戻ろうと、その笑顔が囁く。慌てて涙を拭おうとすると、香水の匂いのするハンカチが、差し出された。
 貸衣装屋で、そんなものは借りなかったのだから、ロンドンから用意してきたのだろう。さすがは、役者だ。演じることに慣れた彼と、同じ土俵で自分のことを考えていた自分が、ふと恥ずかしくなる。
 おれは「彼女」の肩を抱いて、ふたたびドアを開けた。




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