When You Awake (1)













 ここ数日、寝たり起きたりを繰り返しているせいか。東の空が白みはじめるころには、すでに眼が覚めてしまっていた。
 目の前に、大きな鈍色の手が投げ出されている。特徴的なその手の向こうで、むき出しになった白い肩が、安らかな寝息とともに小さく上下していた。そろりとベッドから這いだし、毛布を引き上げて裸の肩を包んでやる。これほどに深く、安寧に眠ってくれることが、なによりも嬉しい。
 洗面所で顔を洗い、ガウンを羽織ってキッチンの冷蔵庫から、ありったけの食材を取り出す。卵もベーコンも、半月前に家を空ける前に買ったものは、これでしまいだ。リンゴは昨日でもう食べ尽くしてしまったから、しかたなしに戸棚を開けて、煮豆の缶詰を取り出す。さいわいパンはまだあるが、以前彼がここに出入りしていたときに買った、長期保存のプンパーニッケルである。さすがに三日間、もろもろと崩れるこの酸っぱいパンを食べ続けていると、クロワッサンやパイが恋しくなってくる。
 ――もう、一年も経つのか。
 ボウルの中身をフォークでかき混ぜながら、パンのパックに印字された製造年月日を眺め、思いを馳せた。そう、ちょうど一年前のことだ。月に一度は、長距離の仕事のついでにここに遊びに来ていた彼が、ふっつりと姿をみせなくなったのは。
 おれが自分から、このパンを食べることはない。だから彼のために買い置いたパンは、そのまま戸棚に根を生やした。消費されるあてもないまま、なかば諦めを感じていたころ、ひさしぶりに日本から召集がかかった。戦いのさなかには、いつもと変わりなく接し、そして、……。
 できあがった朝食を盆に乗せ、おれは頭を振って背筋を正した。もう、あれこれと考えるまい。起こったことは起こったこと、それを受け止めるまでだ。
 寝室へと戻ると、ベッドの上で、毛布がこんもりと丸まっていた。
 「おい、アルベルト……起きたのかい?」
 サイドボードに盆を置いて、はみ出たプラチナブロンドに、声をかける。毛布の中身がもぞもぞとうごめき、手足が野放図に突き出てきた。
 「これ、お行儀が悪いぞ」
 「いいじゃないか、どうせあんたとおれと、ふたりきりなんだ」
 突き出した手足を一度思いきり突っ張らせるが、また毛布の中にもぐり込んで、彼は答える。髪が引っ込んだあたりの毛布をちょいとめくって、おれはまた、声をかけた。
 「起きないと、せっかくのスクランブルド・エッグがさめちまうぞ」
 「んー、スクランブルド・エッグ……なら起きる」
 「起きろ起きろ、今日はやることが山ほどあるんだ。買い出しに、洗濯に……」
 まずはシーツを洗うぞ、と言うと彼はようやく毛布の中から鎌首をもたげた。昨日、バスルームからベッドに直行したせいだろう。寝癖がひどい。
 「……替えちまうのかよ。せっかくあんたの匂い、愉しんでたのに」
 くしゃくしゃの長い前髪の奥で、鼻にしわを寄せて笑う。前髪を掻きあげ、秀でた額にそっとくちづけると、頬に接吻の返礼がかえってきた。
 素はだかのまま、彼はベッドの上にあぐらをかいて、スクランブルド・エッグの皿を受け取った。金属剥き出しの部分も、美しい秘密もすべてをあらわにしたまま、飲み食いしたり部屋をのそのそ歩き回ったりするのを、はしたないと注意するのもやめてしまっていた。素直なプラチナブロンドや透きとおるような白い肌が、陽光を浴びて輝くさまを、いつまでも眺めていたいと思ったせいばかりではない。こんなにくつろいだ無防備な姿を彼がみせるのは、おれの前でだけなのだから。
 「うまい。やっぱりあんたのスクランブルド・エッグは最高だよ、グレート」
 「お褒めにあずかり、恐悦至極」
 指についた卵を舐めながら、彼のくちびるが近づいてくる。やれやれ、と呆れながら、やはり接吻に応えてしまう自分の甘さを、おれは少々、もてあましている。






 成田からの10時間あまりのフライトを、ときには益体もない会話をつなぎ、ときには浅い眠りに落ちながら過ごした後、ヘルシンキの空港で別れを告げたとき。なんとも名状しがたい寂寥感にとらわれ、おれはしばしことばをうしなった。
 離れがたい。その思いを共有していることは、彼の眼をみれば一目瞭然であった。友愛と片づけるにはあまりに情け濃く、恋と呼んでしまうには、ためらいが残る。そんな関係を、長年続けてきた。一年間、音沙汰なく過ごしてしまったのは、その先に進む勇気を、互いに持てなかったせいだ。
 そして、互いに思い知ってしまった。もはや、離ればなれでいることなどできないのだと。
 だから、ヒースロー行きの搭乗口に並んでいる最中、いつのまにか彼が傍らに戻ってきていたことに気づいても、なにも言わなかった。ほぼ無言のまま、ヒースローからパディントン行きの列車に、さらに郊外行きの地下鉄に乗り継ぎ、ともにおれのアパートへ向かった。部屋に招き入れるなり、嵐のような抱擁とくちづけに襲われても、おれの頭は奇妙なほどに冷静だった。こうなることを、まるで生まれる前から知っていたかのように。
 コートを脱ぐ間すら惜しんでベッドに倒れ込み、最初は溢れる想いのまま、互いを解き放ちあった。それから、遠い昔に同性と経験のあったおれが、まるで知識のなかった彼を教え導きながら、受け容れた。しかしその後、さんざん苦心しておれを受け容れた末に彼が望んだのは、その最後の性愛のかたちだった。空腹をおぼえたら、半月前に買った卵や買い置いていた食材を適当に料理しては食べ、疲れたら適当に休みつつ、それでも彼はひたすらにおれを求め続け、おれはその求めに応じ続けた。
 「まさかまる三日間、やりっぱなしとはね。お互い若くもないのに、よくもまあ」
 すきっ腹を満たし、紅茶をすすりながら、自嘲をこめてついそう呟くと、あいかわらず素はだかでベッドの上に居座る彼は、にやりと笑った。
 「まだいけるぜ。教師役が上手いせいかな」
 「おいおい、冗談はよせ。快楽中枢が壊れてるんじゃないのか? いくらなんでも、からだのほうだって……」
 「こんなことで壊れるほど、やわにできてるはずないだろ」
 真顔で言い、淡々と続ける。
 「冗談で、こんなことは言わない。グレート、あんたとなら、いくらだってできる。最高だった。あんなのは……はじめてだよ」
 「そりゃまたお褒めにあずかり、恐悦至極……」
 「あんたにああいうことを教えた男にも、あんたとこれまで寝たレディたちにも、正直妬けるな」
 朝の清浄なひかりの中で、面と向かってする会話ではない。穴があったら入りたい心持ちで、おれはティーカップの陰に隠れている。耳や首筋まで赤くなっているのが、彼からは丸見えのはずだ。
 ベッドの上で、彼はこちらににじり寄ってきた。ピアノで鍛えた長い指が、しなやかな所作で腕に触れる。金属と陶器の触れる音とともに、からになっていたティーカップとソーサーは、いとも簡単に取り上げられてしまった。
 「……よしとくれ、アルベルト。何十年前の話だと思ってるんだ」
 「わかってるさ。その男もレディたちも、きっとこの世にはもういない。でも、妬けるもんは、妬けるんだ。これからだって、あんたは衆目を集めずにはいられないだろうしな」
 胸に触れる、硬い感触。彼の右手が銃口を向けて、おれの心臓の真上に強く押し当てられていた。
 「よそ見なんてしてみろ。蜂の巣にしてやる」
 「……」
 「もう逃さないぜ、グレート。あんたをつかまえるためにこの一年、棒に振ったんだからな」
 ああ、と声を呑んで、おれは彼の青灰色のまなざしに射貫かれる。恥ずかしながらこのとき、はじめて気付いた。図らずも彼の術中にはまって、まんまと絡め取られたのだと。
 「……おまえさん、最強の殺し文句を口にしてるって、気付いてるか……?」
 今度は彼が声を呑んで、喉仏をうごめかせる。口を、口で塞がれた。やわらかな舌が忍び込んできて、貪欲に啜りあげてくる。
 「しかし、おれもまだまだ修行が足りないな。切り札をこんなにあからさまに出しちまってたら、殺し文句も効力が半減だ」
 グレート、あんたしか見えないんだ、もう。
 息もつかせぬ接吻の合間、あまやかな吐息とともに、恋の告白が耳に吹き込まれる。幻惑されて、またぞろベッドに引きずり込まれる。
 全面無条件降伏をしているのは、彼のほうだというのに。



 (2)へ続く



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